宗教に関する研究会に行ってきた。
日本の常識は世界の非常識、と言われて久しいが、近年は、さらにその傾向が顕著になってきていると思う。
先日、ある宗教学者の方のお話を伺う機会があったが、最近の学生の宗教に対するイメージの悪さには愕然とするほどだという。
もちろん、それはメディアの影響も大きいだろうが、それだけではない。戦後、政治においても、教育においても、あるいは地域社会においても、日本人は意識的に、宗教というものについて語ること、触れることを避けてきた。
戦前、皇国史観というものに傾きすぎた反動もあるのだろうが、それだけではない。
宗教というものを根底から否定する共産主義思想に傾倒する知識人が、社会の各分野において、宗教の価値を貶める活動を意識的に行ってきたのである。
翻って、世界を見るとどうだろう。
宗教・イデオロギーの復権と葛藤
一般的には、ルネッサンス以降、世俗的ヒューマニズムが世界を覆い、宗教的価値観を排除した流れが世界の潮流であると思われてきた。
しかし、ここにきて、宗教の復権ともいうべき状態が生まれてきているというのである。
今回参加した研究会でも、長らく、外交の最前線で戦ってきた元官僚の方がそのことを熱く訴えておられた。イスラムや、旧共産圏における正教の復活をはじめとして、さらには一般的な意味での宗教だけではなく、動物愛護主義者や国家主義者など様々な形の「信仰」が、多くの人の行動の根拠となり、そのことによる様々な葛藤、紛争が起こっているというのだ。
日本人にとってみれば、捕鯨の問題などが身近な例として挙げられるかもしれない。
日本の水産庁などは、クジラの数は減っていない…と数値を挙げながら科学的アプローチで捕鯨反対派を説得しようとしているが、それは全くのお門違いで何の効果もないという。
なぜか?それは、反対派は、命を殺してはならない、という自然母性崇拝主義ともいうべき、思想信条に基づいて行動しているからである。特にシーシェパードなどはその典型だ。
イスラムの原理主義を見ても分かるように、彼らの価値観からいけば「大自然を守り、知性と感情をもつ生き物を守る」という大義の前には、漁船に体当たりしたり、催涙ガスを吹き付けたりすることは「小さな必要悪」として正当化されるのである。
それに対して科学的な数値をいくら並べても、彼らの行動を止めることはできない。
私たちの側に、クジラをとって食べることを「よし」とする哲学的思想的根拠があるのかないのか?そして、それが、彼らに対しても説得力を持つものであるのかどうか、それが問われているのである。
一時、「イデオロギーの時代は過ぎた」とうそぶいた人々がいたが、とんでもない。現代こそ、様々なイデオロギー、思想、信条、信仰がむき出しになってぶつかりあっている時代なのだ。
語る言葉を持たない日本
そんな時代に、日本が取り残されつつあるのは不思議ではない。誰も、自分自身の行動の根拠となる思想信条について語る言葉を持たないのだから…。
宗教的寛容と、無宗教というのは全く違う。そのことをはき違えている日本人が、どれほど多いことか…。
(実際に日本人は、宗教的には全く寛容ではない。ただ軽視しているだけだ。日本国内における宗教信者に対する扱いをみればよくわかる)
最近、フランスにおいて、「もし日本がなくなったら…」という記事が出た。
そこにおいては、高い技術力が失われる、とかユニークな文化が失われる…といった文章しか並んでいなかった。所詮はその程度なのである。
もし、あなたがいなくなったとき、あなたのスキルや作品のみを人々が惜しむとしたら、どうだろうか。さみしくないだろうか。
人格や、思想が持つ高潔な価値を見失った民族は、どこに向かうのか?
災害の後でも盗みが少なく、整然と列に並んでいる…程度では、世界の尊敬を勝ち取ることはできない。
それは、ただの「おとなしい羊」でも十分にできることだから。
そこから、どんなビジョンをもって日本は一つになるのか、あるいは立ち上がるのか。それが一向に見えてこないのは、宗教、哲学という、人生の根本にかかわる議題から、目を背けてきたことに対する罰である。
今からでも遅くはない。
日本においても宗教者が覚醒すべき時である。
今日のまとめ。
- 今、世界では宗教の復権ともいうべき潮流が起きている。
- 様々な信仰、信念、思想がぶつかり合い、その葛藤の克服が重要な課題になっている。
- 一方、日本では、宗教、信仰、思想についての深い見識を備えた人材がいない。
- 日本は、世界で発言できなくなってくる。経済の衰退だけが危機ではない。
- 宗教教育、理念、思想を語れる人材を育成する必要がある。